川と海から-132.海宝楼跡(田沼邸)
八幡宮から慶珊寺方面に抜ける道筋に「田沼」と表札のある大邸宅があるが、これが明治時代にこの地で絢爛豪華を誇った料亭「海宝楼」の跡地である。 景勝地・保養地として貴紳顕官が公私両面で集う富岡に必要な社交場の必要性が高まり明治13年に鶴見の実業家小野又七が開業した。また明治19...
川と海から-131.富岡八幡宮
建久2年(1191)幕府発足の前年に源頼朝が摂津の難波の蛭子尊(ひるこのみこと=エビス様)を勧請し当郷鎮護を祈ったもので鶴岡八幡宮とほぼ同時代の創立である。鎌倉の鬼門封じの意味があったのであろう。伝承では旅の僧がこの地の貧しい老人の家に現れ食物を乞うたとき、たまたまあった麦...
川と海から-130.初期「海浜リゾ-トエリア・高級別荘地」としての富岡海岸
富岡海岸は古くから風光明媚の地で、明治以降中央の貴紳顕官、財界指導者、芸術家たちがここで清遊したり別邸を構えたりした。富岡八幡宮近くの金波楼や海宝楼は彼らの好んだ大料亭であった。 富岡に邸宅を持っていた者 ◆三條実美‥‥‥尊攘倒幕派の筆頭公卿、公爵・右大臣・太政大臣。...
川と海から-129.合玉堂と「二松庵」
日本画家として有名な川合玉堂は大正6年ころ富岡に遊び、ここの景観を大いに堪能した。大正12年頃までに数寄屋造りの別荘をつくり画室を備え「二松庵」と命名して画業にいそしんだ。 敷地約2千坪、南側低湿地の下段と北側の山腹を切り開いた上段に分かれ、回遊式庭園になっている。平成7年...
川と海から-128.松方正義別邸
慶珊寺の手前海岸跡に富岡下・長寿会の小さな標示があり「松方正義別宅跡」と読める。この石組みは当時のものと言われている。松方正義は薩摩の人、大久保利道の推挙で日田県知事となり、租税頭・大蔵大輔として地租改正で功を上げた。その後明治14年の政変で下野した大隈重信に代って大蔵卿と...
川と海から-127.孫文上陸記念碑
中国革命の先駆者孫文が日本での運動のためひそかに上陸したのがここの海岸で、慶珊寺山門脇に岸信介氏の筆になる上陸記念碑がある。副碑として次の説明がある。近代中国建設の父とにして、三民主義、大アジア主義の提唱者である孫文先生は、第二革命に際し袁世凱に追われて中国を脱出、台湾経由...
川と海から-126.直木三十五文学碑
直木賞に名を残す昭和初期の売れっ子作家直木三十五(本名植村宗一)は昭和8年12月にこの地に移住したが脊髄カリエスの滋持病が悪化、翌9年2月24日結核性脳膜炎を引き起こし病没した。当代きっての流行作家で薩摩藩のお由良騒動を主題とする「南国太平記」で大当たりを取った。従来の講談...
川と海から-125.慶珊寺
この地の領主旗本豊島刑部明重の菩提寺で明重が寛永元年に母の供養のため開いた。慶珊とは母親の戒名である。豊島明重は武蔵七党の出でかつての東京都豊島区一帯を領していたが、後北条氏に滅ぼされ徳川の代に復活した。祖先の功によって江戸前期この富岡で千七百石を賜り剛直を評価され御目付役...
川と海から-124.豊島刑部・江戸城の刃傷第一号
江戸期の富岡1700石の領主豊島刑部明重が仲人として大阪の島田越前守の息女と井上主計頭正就の子息との婚儀を整えたところ、井上主計は権勢比類なき春日局の意図で上意と称して破談にし上位の大名の娘に乗り換えた。武士の面目を失した豊島刑部は寛永5年殿中で井上主計を刺し、後ろから自分...
川と海から-123.長昌寺
はじめは富岡山長昌庵という臨済宗建長寺派の禅寺で天正年間(1573~1592)小田原北条の家臣柳下豊後守の創建という。「武蔵風土記稿」によれば文録2年(1593)安房上総方面より流浪の盗賊が来襲し豊後守に手傷を負わせ本尊の阿弥陀如来を奪い去ったが、たちまち仏罰に会いもとに返...