川と海から-122.青砥左衛門尉藤綱の伝承について
鎌倉の滑川で十文の銭を落とした青砥左衛門藤綱が五十文のたいまつを買って川浚いして探させた逸話は有名だが、富岡の青砥に大正14年12月設置の高さ158センチメ-トルの緑泥片岩製の立派な「藤綱之墓」がある。加藤某氏の建立になるものだが、その音の類似と青砥という地名に結びつけた牽...
川と海から-121.富岡周辺のあれこれ
昭和2年10月横浜市に区制が施行されたときの磯子区の南限は現在と同じく杉田までだったが、昭和11年10月に六浦荘村・金沢町が吸収されて磯子区の範囲は更に南に拡がった。戦時中の金沢地区の発展のため戦後の昭和23年5月15日に拡張区域が「金沢区」として独立し、磯子区はもとの範囲...
川と海から-120.横浜海軍航空隊とその最後
今の富岡総合公園が戦時中の横浜海軍航空隊(浜空)の跡である。昭和12年3月にここのクツモ海岸を埋め立て、追浜の横須賀海軍航空隊から分離して開設された。開隊式には土地買収に応じた地主、近隣小学校の生徒たちも招かれ記念の絵はがきも発行された。三階建ての兵舎と三棟の格納庫のある日...
川と海から-119.ゼロ戦争搭乗員悲劇の地・杉田の山中
正確な位置はで地元でも知られていないが、昭和20年2月16日、杉田の山林(栗木か中里あたりかも知れない)に落下傘降下した海軍のゼロ戦搭乗員が、米軍飛行士と錯覚した地元警防団員により殴打撲殺されてしまうという事件が起こった。以下は文春文庫「大空の決戦(羽切松雄著)」による。...
川と海から-118.日本飛行機株式会社・石川島航空発動機
日本飛行機(ニッピ)は陸軍軍用機を生産していた立川飛行機株式会社の経営母体である渋沢同族会社が昭和9年に資本金200万円で杉田町と昭和町にかけ設立したものである。横賀航空隊に近いところから主として水上練習機(赤い塗料を塗っていたので通称アカトンボ)をつくっていた。敗戦まで...
川と海から-117.沖から見えるもの(2)
【磯子沖で】 ■日本超低温 ■旭紙業 ■東芝生産技術センタ- ■石川島播磨重工業 ■東京液化酸素 ■新潟鉄工所横浜工場 ■日清オイリオ横浜磯子工場 【森・中原・杉田・富岡沖で】 ■東芝横浜事業所■横浜アリ-ナ #川と海から
川と海から-116.埋立て前の海岸線
明治期以降市域の発展につれて土地が必要になり、磯子の海は次々と埋め立てられた。敗戦後はまだ自然海面が広く残され、漁業で生計を立てる人も多く、豊富な魚介類をもたらしてくれた。また海岸一帯は海水浴場やオゾンに充ちた保養地として知られていたが、高度成長期の初期に大規模な埋立てが進...
川と海から-115.旧磯子料亭街跡・偕楽園と関東大震災犠牲者の碑
現在の磯子区役所は埋立て前に浜小学校があった場所だが、その南側の海岸沿いに偕楽園・藤屋・田舎家・雨月荘という料亭が並んでいた。 その中の一番大きな料亭が偕楽園で、バスが16号線から曲がって駅前に入るあたりの「磯子アイランド」のところである。一部は海水浴場として市民に解放され...
川と海から-114.清水坂(しみんざか)・年貢の道
安政6年に横浜が開港するや江戸向けの海上輸送の多くは開港地に振り向けられた。天保13年(1842)に森公田村の廻船問屋で領主から百両の御用金上納を命じられた豪商斉藤清四郎は明治初年に横浜村へ大量の薪を出荷しているが、供給元は関、上大岡、吉原、松本、上永谷、矢部野、田中など近...
川と海から-113.汐見台周辺の遺跡群
汐見台団地は昭和30年から6年の歳月と100億円をかけ根岸湾埋立地への企業誘致に応じた企業従業員の宿舎ならびに一般市民居住地として建設された市域初期の大規模造成だが、この結果工事範囲内部の遺跡のすべてが破壊された。造成前は山林が約50%、農地44%、国有地6%で、農地のうち...