川と海から-012.不動坂・白滝不動
根岸根岸村の山の上と下を結ぶ道路の中で馬車や牛車が上り下りできるのはこの坂だけだったので、土地の人はこの坂を「馬力坂」と呼んでいた(坂の上にバラキという茶屋があったので「バラキ坂」が転じたものだとの説もある)。 海岸の半農半漁の村人が台地の上の畠に行くときは不動坂は外国人の...
川と海から-011.根岸・滝頭の疎開道路
疎開とは戦場で兵員・兵器が密集していると砲撃などで被害が大きくなるため分散し再配置することだが、戦時中の内地では空襲による損害を少なくするための「火除け地」をつくる家屋疎開、子供たちを危険な都会から農村に集団的に移動させる学童疎開(単独で親戚知人を頼る縁故疎開)などの用語と...
川と海から-010.関東大震災と朝鮮人
大正12年9月1日の関東大震災は横浜旧市街を全滅させたが磯子区の被害は中心部や埋立地に比べれば少なかった。しかし混乱に乗じて朝鮮人暴動のデマが広がり多くの不幸な在日朝鮮人が「自警団」の犠牲になった。 当時このあたりには故郷を離れて仕事を求めに来ていた朝鮮人が多数いたので被害...
川と海から-009.根岸湾保養地
風光明媚な根岸湾沿岸台地は気候温暖でオゾンに富み、絶好の保養地であった。明治大正を通じて横浜中心部の発展につれここに邸宅や別荘を構える裕福な日本人や外国商人の邸宅が進出し、特に台地南面に連なった。また海沿いには料亭や割烹旅館も増えてきた。...
川と海から-008.根岸八幡神社と「さかき神輿」
この神社の名物に「さかき神輿」がある。本体の部分に9尺四方、高さも9尺の大量のさかきを束ねてそれを派手な女子用長襦袢を着た若い衆が担ぐ。漁師など力のあるベテランが50人で担当し、交代が2組、合計150人も必要とする神輿であった。...
川と海から-007.大竹屋あと(パ-ル・レストラン)
滝頭八幡宮の向かいの八幡橋幼稚園のところに幕末明治にかけて「大竹屋」という茶店があった。ここは山手居留地から不動坂を経由する「外人遊歩道」の終点で、根岸掘割川沿いの新道(当時のメイン道路は現在の16号線ではなく川の東側の道であった)に合流する絶好の立地条件にあった。...
川と海から-006.外国人遊歩場
根岸競馬場が完成したのでコ-スの外側に移ったが中央低地部には射撃場脇から不動坂につづく「外人遊歩道」があり、山手居留地に住む外人が遠乗りを楽しむため往来した。横浜周辺の外国人遊歩範囲は安政4年の日米協約で開港場十里四方、北は多摩川下流川崎宿まで西は酒匂川までと決められ、この...
川と海から-005.根岸競馬場
文久元年(1861)、州乾弁天裏の西海岸(生糸検査場付近)を埋め立てて馬場と馬見所をつくり、幕府の役人が馬術の練習をしたり外国人が競馬会をして楽しんだりしていた。文久2年(1862)5月1日と2日に居留地外国人による初めての本格的な競馬会が開催され、居留地の新聞「ヘラルド」...
川と海から-004.旗 塚
滝頭八幡裏手に樹林に覆われた直径10メ-トル、高さ2メ-トルの円墳がある。民家の敷地内で立ち入ることができず正面からは見えないが、裏手にまわると垣根越しに見ることができる。言い伝えによれば、この塚に旗を立てて漁民の目じるしにしたことから旗塚と称した言われているが、往時はこの...
川と海から-003.滝頭八幡宮
川の東側の所在地は現在は原町10-9だが以前は「滝頭町字原56」であった。 この神社は川を隔てた滝頭地区の鎮守である。現在は掘割川が町の境界となっているが、明治34年の第一次市域拡張のときの横浜市と久良岐郡の境界は掘割川とは無関係に屈曲して走り、この神社のあるところは久良岐...