川と海から-042.「平楽」と平子氏
鎌倉の御家人「平子氏」は磯子の真照寺あたりに館を構えて禅馬郷を直轄支配し、後北条時代の江戸攻略の頃まで横浜南部一帯を領していた。石井光太郎氏が山形県伊佐沢町で新しい系図を発見して以来、平子氏の出自を三浦党とするのが通説だが、系図はそのときどきの都合でつくられるのだからそれを...
川と海から-041.山本周五郎と「季節のない町」・中村町界隈
甲州の繭の仲買人の子として生まれた彼は家運が傾いて親とともに上京、間もなく同業者の集まる横浜に転居した。中区久保町に住み戸部小学校、のちに学区変更により西前小学校に通った。幼くして文才を示した彼は西前小学校の三年生のとき担任の先生から小説家になれと言われたことがあった。その...
川と海から-040.稲荷山遺跡と根岸台地の貝塚たち
よりよき未来を模索する手がかりたる歴史学習は、時間軸のスパンをどのように取るかで様相が一変する。横浜の「今」は開港150年の中で見るか、縄文5000年の中で見るかで手がかりに天地雲泥の差がある。開港以来の視点では世界的に類を見ない江戸時代の文化熟成を無視した黒船一辺倒の歴史...
川と海から-039.蒔田吉良氏
伊勢新九郎は戦国の勇者として関東に勢力を伸ばし小田原を本拠に相模東部においては玉縄城(JR大船駅北側の清泉女子大キャンパスがその跡)をその出先機関として精鋭武士団(玉縄衆)を置いた。 後北條の氏繁は竜珠院を再興して兵站基地にするとともに平子氏を越後に移し吉良氏を登用し蒔田城...
川と海から-038.宝生寺(真言宗・青龍山宝金剛院宝生寺)
山かげで見えないが、中世の平子郷本拠地から外界への通路を押える場所(「堀の内」とは豪族の館を示す)の横浜有数の名刹で広い境内(宝生寺分4253坪、弘誓院分1559坪計5812坪)は神奈川県天然記念物寺林に指定されており町なかと思えない静かな雰囲気を残している。...
川と海から-037.共生の道を行く朝鮮半島出身者集落
崖のノリ面がすっかり擁壁で覆われた米軍住宅の真下の100戸以上の集落が朝鮮人民共和国・大韓民国両国の人たちが分断された祖国を背負いながら共生している集落である。かつてここは絶えず崖くずれの危険があり住宅地には不適であった。戦前から横浜南部の各地(岡村・杉田・金沢他)独自の集...
川と海から-036.揮発物貯蔵所
横浜開港によってさまざまな商品が陸揚げされたが、取り扱いに困惑したのが揮発性の高い燃料や火薬類であった。 通関手続きや国内輸送で処理されるまでの間を通常商品とは別に安全場所に保管する必要があった。当時の中村川沿岸は吉田新田埋め立て用の土砂を採ったあとが空地となっていたので、...
川と海から-035.根岸村から保土ケ谷助郷に通った道
根岸方面から天神橋を渡りもとの揮発物貯蔵所(現県警職員住宅)の前から宝生寺門前のボトル・ネックを通って清水ケ丘経由で保土ケ谷に通ずる道が、根岸村からの「保土ケ谷道」で、保土ケ谷宿の転馬・助郷御用のために農民が毎日往来した幹線道路であった。...
川と海から-034.小河川・こんにゃく橋
堀割川の完成によってそれまでの八幡川に流入していた小河川は徐々に姿を消して行ったが、山際には自然の湧水による溜め池がいくつのあって八幡川流域の水田耕作の貴重な水源になっていた。堀割川が完成し沿岸道路ができ、水田がうめられて住宅や工場の用地になるにつれ溜め池や小河川は不必要に...
川と海から-033.五三前橋(天神橋)、岡村天神旧参道と色天神
天神橋のもと島田自転車(いまのロ-ソン)の角から「こんにゃく橋」を渡り刑務所の壁に出て滝頭小学校の脇から一の鳥居に通ずるのが天満宮の参詣路で、毎月25日の祭日には朝早くから参詣の人で賑った。 天神橋はつくられたころは「五三前橋」といったが、これは「ご参」から来ているものであ...