中華街を鏡に考える-008.加賀町・薩摩町だけ残して山下町に
現在の「加賀町警察署」、バス停「薩摩町」にだけ残ったが、この中華街一帯は居留地時代には日本全国の国や町の名が採用された。歴史の古い町にある「寺町」「銀座」「鉄砲町」「鍛冶町」「呉服町」「木挽町」「伝馬町」「城山」などの名はこの歴史の薄い町にはありえない。...
中華街を鏡に考える-007.「堀」「運河」で区画された居留地
現在の私たちの目には円海山・日野を水源とする大岡川が「お三の宮」で北の大岡川、南の中村川に分流し、中村川は元町から新山下橋まで堀川と名を変え、二つの川が横浜中心部を包む三角州を形成しているように見える。しかしこれは歴史と地形の錯覚で、吉田新田建設まで大岡川は「お三の宮」が河...
中華街を鏡に考える-006.中華街の道路はなぜ斜めか?
中区の地図を見ると、ほとんどが山下公園の海岸線とJR根岸線に平行・直行の碁盤目で区画されているが、中華街のある四角形の部分が周囲と45度斜めにレイアウトされている。いったんこのブロックの中に入ってしまえばその内部は碁盤目で迷うことはないが、そこから外部に出るときに方角がわか...
中華街を鏡に考える-005.革命の父孫文と横浜
現代中国で政治的立場のちがいを越え最も崇拝されているのが孫文である。孫文の指導のもとに辛亥革命が成功し中華民国が誕生(アジアで最初の共和国である)したが、その中には早くも左右の路線の違いからの対立を含んでいた。その後の日本軍部の大陸侵攻への戦略的配慮から何回かの国共合作が行...
中華街を鏡に考える-004.「落葉帰魂」から「落地生根」へ、「白手起家」の精神
中区柏葉に中華墓地・地蔵王廟がある。かつての中国人はこの世を去ると遺体は故郷に送り還してもらうことを最大の喜びとした。生前から漆塗の立派な樫の棺をあつらえて、葬儀が終わってからは棺の遺体に石灰を満たし、毎年一回やってくる「棺船」で故郷に帰った。前述の通り出身地は圧倒的に広東...
中華街を鏡に考える-002-5.日本への中国留学生は日本をどのように見ていたか?(「わが青春の日本」)(中華街ショ-ト・ヒストリ-)
自分の顔は自分では見えない以上「他人がどう見たか」は己れを知るには絶好の教材である。しかも文化的に永年にわたって交流して来た中国の若者の目にれぞれの時代の日本がどのように写ったかは、現在の私たちに自分を日本の両方をよく自覚させてくれる。人民中国雑誌社編集の「わが青春の日本‥...
中華街を鏡に考える-002-4.二つの休日、二つの学校、二つの華僑総会(中華街ショ-ト・ヒストリ-)
前述のように中国本土における国民党と共産党の分裂、中華民国からの中華人民共和国の成立という激動の中で横浜在住中国人も激しい対立の渦に巻き込まれた。 学校教育も「横浜中華学院」と「横浜山手中華学校」に分かれ、青年会は「横浜華僑青年会」と「横浜中華青年会」に、婦人会も「横浜自由...
中華街を鏡に考える-002-3.一冊の本‥‥屈辱と悲惨の時代の証言(中華街ショ-ト・ヒストリ-)
1997年2月、新風舎という出版社から「横浜中華街華僑伝」というグラフィックが出版された。著者(撮影者)は村上令一氏、京急上大岡駅東口の写真展の若主人である。専門家だけに全140ペ-ジの前半は72名の在住華僑のカラ-・ポ-トレイトで、後半はそれらの人々のお店や職業に関する「...
中華街を鏡に考える-002-2.初期の中華街(中華街ショ-ト・ヒストリ-)
広東人は賭け事が好きと言われ、明治期には127番、148番、118番あたりにはバクチ場が常設されていたという。また戦前には随所に阿片窟があったようだ。問屋が4、5軒あって船員が密輸してきた阿片を買い、両替屋や質屋に一割五分から二割の口銭を取って売る。さらに五、六割の利ざやを...
中華街を鏡に考える-002-1.開港と中国人の来日(中華街ショ-ト・ヒストリ-)
安政6年の横浜開港とともに多くの外国人が居留地に住みついたが、貿易に従事した欧米人はアジアにおけるそれまでの根拠地香港から多くの中国人を連れてきた。初めて日本人と取り引きするにあたって同じ文字を使い日本の事情にも多少は明るい中国人が窓口役として便利だったのである。...