川と海から-022.このあたりの鎌倉落ち武者伝説
元弘3年(1333)5月22日は北条氏最後の日で、鎌倉攻めの新田義貞軍は極楽寺坂、大仏坂、化粧坂、亀ケ谷坂、巨福呂坂から、千葉貞胤軍は朝比奈口から侵攻した。鎌倉は火の海と化し北条高時はじめ名だたる武将は東勝寺で最後をとげた(北条やぐら)。鎌倉での死者は6千人と言われ今も市内...
川と海から-021.ヘルム・ドックと松山善三・高峰秀子夫妻
堀割川の水面または東岸道路から眺めると現在の磯子住宅の前の16号線道路の一部が不自然に盛り上がっているのがわかる。 ここはかつて「ヘルム・ドック」という木造船の造船所があったところで今も堀割川に向けて水門を開けている。水門を入ったところにレ-ルを乗せた斜面があり、その奥の木...
川と海から-020.砂利取り場と「砂利勝」
滝頭八幡神社の東側の磯子橋・坂下橋あたりは明治のころの「砂利取り場」のあとで、この砂利は掘割川をダルマ船で中心地に運ばれ港湾や都市の建設に重用された。横浜港の外国船が帰りの荷が少ないときには船底のバランス材としてこの砂利が使われたという。「砂利勝」といわれた安室勝五郎と「村...
川と海から-019.東洋バブコック
明治40年英国のバブコック&ウイルコックスが山下町に日本総支社を置いてボイラ-の販売を始めたが修理工場が必要となり、ここにあった「禅馬ウイルコックス」を吸収して創業した。昭和27年には日立と提携し「バブコック日立」となった。現在の「ニトリ」の場所である。...
川と海から-018.動物検疫所
農林省の所管で明治35年に建設され、現在兵庫、福岡、長崎の各港湾都市の検疫所を統括している。 掘割川沿岸で創業のまま現存する唯一の施設である。 輸出入の動物はすべてここで検疫されるほか、食用の肉類や中国からドラム缶詰で輸入されるソ-セ-ジ用の羊腸も大量に検査消毒されている。...
川と海から-017.塵芥処理場
関東大震災のあと町が復興するにつれ増大する横浜市民の廃棄物を処理するため、横浜市はバブコック社支配人の英国人ブリントンの設計による東洋一の滝頭塵芥処理場を突堤の先に設置した(ボイラ-もバブコック製であった)。 ここでは全市のゴミの約90%が処理され、処理した火力で市電30台...
川と海から-016.滝頭波止場
湾内で操業する漁船が風浪の激しいときに避難する場所として堀割川の先端に波止場が建設された。 またここは水運の便がよいので湾内 漁業の水揚げ場が集まり7~8軒の魚問屋が並んでいた。そのころの漁獲物としてはイワシ、コノシロ、アジ、アサリなどの小物が主であ...
川と海から-015.掘割川周辺の中小工場群など
明治3年に始まり7年に完成した「根岸堀割川」工事は前述の通り三つの目的をもっていた。 ①稲荷山・弥八ケ谷戸の削平と旧八幡川の開削拡幅によって生じた膨大な土砂をもって、湿地だった横浜新田「一つ目の沼」の「かさ 上げ」をする(この結果出来たのが、翁町、扇町、寿町、松影町、不...
川と海から-014.牛乳ことはじめ
根岸村は牛乳にも縁の深い土地である。横浜で初めて牧畜を始めたのはオランダ人スネルで文久初年のころ、堀川の前田橋の居留地側に「牛乳搾取」を設け内外人に販売した。 その後スネルに雇われていた前田留吉が乳牛の飼育を担当、慶応2年8月に太田町8丁目(今の加賀町署付近)で日本牛6頭を...
川と海から-013.根岸の西洋野菜と清水辰五郎
開港後の居留地で母国から離れて暮らす外国人にとって日常必要なものは新鮮な野菜であった。文久3年(1863)頃これに目をつけた英国人カ-チスが山手の肥沃な土地で西洋野菜の栽培を試みたという。 キャベツ、トマト、じゃがいも、レタス、苺、ラディッシュ(赤蕪)、キャロット、カリフラ...