山の手散策-020.石川代官屋敷
長屋門のある大きな屋敷は江戸時代の横浜村名主石川徳右衛門の居所である。ペルリの横浜での交渉のときには警備兵の給食などで活躍しその功により幕府から賞金を贈られた。また明治になってからも横浜の政界、実業界で重きをなした。 商店街からこの屋敷前を通りトンネルの上を経て北方町に抜け...
山の手散策-019.横浜の西洋家具
開港前の横浜港周辺は砂州の上に僅かの戸数の横浜村があり中央部に水神の森(現在の開港資料館付近)、突端に弁天社があった。開港に伴い水神の森の脇に貿易事務を扱う運上所、その前面に波止場がつくられ、それより西の砂地が日本人居住区、東の畑地が外国人居留地と定められた。居留地に住んで...
山の手散策-018.百段階段と薬師堂あと
堀川にっかる前田橋(前田は横浜村当時の字名)のから商店街を越えて丘陵(この付近を浅間山と言った)につきあたるところの上に大震災まで弁天社がありその境内に薬師堂があった。前述の堀ノ内宝生寺の「横浜」名初出文書で寺領寄進とあるのがこの薬師である。開港以来関内の芸妓衆の信仰篤く、...
山の手散策-018.前田橋とチャブ屋
「らしゃめん」が外人相手の期間契約の洋妾であるのに対して、開港地としての特殊事情から、不特定の外人相手に一夜または時間単位の私娼が続出した。これが俗に言うチャブ屋女である。チャブ屋とは本来、居留地の外人に許された山手遊歩道の近辺に設けられた13軒の休憩所のうち食事(チャブ)...
山の手散策-017.元町女学校跡と中島敦文学碑
汐汲み坂の途中両側の元町幼稚園のあるところが戦前の「元町女学校」跡である。戦災に遭い第一高女の間借り生活をしていたが、岡村の横浜中学(現横浜高校)が敗戦で空き家になった谷津坂の大日本兵器徴用工宿舎に移転したあと岡村に移転そ現在に及んでいる。元町女学校の創立者は当時の県会議長...
山の手散策-016.汐汲み坂
フェリス女学院の脇から商店街にくだる坂が汐汲み坂である。干ばつに悩む丘陵の田畑に塩水を運んだことによるとの説もあるが、農作物は塩分を嫌うはずだからこの説はうなづけない。前記小寺篤氏は「私の素朴な推理であるが、もとはこれが『汐見坂』であったのではないか」と言っておられるが、戦...
山の手散策-009.山手の坂
山手丘陵は大きく見れば現在の「港の見える丘公園」を屈折部として南と東に「L」状に伸びている。南側はワシン坂によって小港に下り東側は稲荷坂によって中村・蒔田平地に通じている。丘陵中心部を貫く軸が山手本通りで、この軸線から両側の平地に向かっていくつもの谷戸がありそれぞれが坂道を...
山の手散策-003.大丸谷チャブ屋街
ある時期横浜の夜の雰囲気を代表した「チャブ屋」をどう表現したらよいか非常に困惑を感ずる。「戦前まで本牧にあった外人相手のあいまい宿」というのが一般的な説明のようだが、たしかに本牧に集中していた時期もあったが、大正8年に市内各所にあった同業を本牧「原」と「小港」付近に26軒、...
山の手散策-002.大丸谷震災慰霊地蔵
JR石川町駅の裏手から山手に食い込んだ谷戸が大丸谷で、JR線側の広い坂が大丸坂、途中から左折し反対側を上る狭い坂が土方坂である。女学生の通学路としてその名がふさわしくないため使われなくなったが、開港期以降の港湾荷役労務者や埋立工事作業者の供給・管理にあたった鈴村要蔵の人足部...