山の手散策-016.汐汲み坂
フェリス女学院の脇から商店街にくだる坂が汐汲み坂である。干ばつに悩む丘陵の田畑に塩水を運んだことによるとの説もあるが、農作物は塩分を嫌うはずだからこの説はうなづけない。前記小寺篤氏は「私の素朴な推理であるが、もとはこれが『汐見坂』であったのではないか」と言っておられるが、戦...
山の手散策-009.山手の坂
山手丘陵は大きく見れば現在の「港の見える丘公園」を屈折部として南と東に「L」状に伸びている。南側はワシン坂によって小港に下り東側は稲荷坂によって中村・蒔田平地に通じている。丘陵中心部を貫く軸が山手本通りで、この軸線から両側の平地に向かっていくつもの谷戸がありそれぞれが坂道を...
山の手散策-003.大丸谷チャブ屋街
ある時期横浜の夜の雰囲気を代表した「チャブ屋」をどう表現したらよいか非常に困惑を感ずる。「戦前まで本牧にあった外人相手のあいまい宿」というのが一般的な説明のようだが、たしかに本牧に集中していた時期もあったが、大正8年に市内各所にあった同業を本牧「原」と「小港」付近に26軒、...
山の手散策-002.大丸谷震災慰霊地蔵
JR石川町駅の裏手から山手に食い込んだ谷戸が大丸谷で、JR線側の広い坂が大丸坂、途中から左折し反対側を上る狭い坂が土方坂である。女学生の通学路としてその名がふさわしくないため使われなくなったが、開港期以降の港湾荷役労務者や埋立工事作業者の供給・管理にあたった鈴村要蔵の人足部...
川と海から-143.後北条氏と房総里見氏との「湾岸戦争」
16世紀を通して東京湾をはさんで武蔵・相模側沿岸と対岸の安房・上総沿岸とは小田原に本拠を置く後北条氏と房総里見氏との間の戦火の犠牲になった地域で、里見軍侵攻の伝承が数多く残されている。両岸ともたえずそれぞれの侵入軍の略奪・放火に怯えていた。沿岸の漁民・農民が窮余の一策とした...
川と海から-142.第三海堡の撤去・「中の瀬」浚渫作業
千葉県富津岬と三浦半島観音崎の間の水域は浦賀水道の最も狭い部分で幅7キロメ-トルしかない。ここを通過する船舶は巨大タンカ-を含め一日平均600隻といわれ、その錯綜ぶりは絶えず大事故発生の可能性をはらんでいる。しかも水道の中間には「中の瀬」という浅瀬と、その西側の「第三海堡」...
川と海から-141.朝鮮人労務者による地下工場
市立夏島小学校南側の丘陵内部に高さ3メ-トルから5.5メ-トル、幅3メ-トルから5.6メ-トルの通路が何本も碁盤目のように張りめぐらされている。コンクリ-トは使われず岩盤がむき出しのままである。今でもトロッコの枕木跡、線路やカ-ブ跡が残り、食堂と思われる広い部屋状の部分には...