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磯子区郷土史研究ネットワーク
中華街を鏡に考える-018.
前田橋とチャブ屋
「らしゃめん」が外人相手の期間契約の洋妾であるのに対して、開港地としての特殊事情から不特定の外人相手に一夜または時間単位の私娼が続出した。これが俗に言うチャブ屋女である。チャブ屋とは本来、居留地の外人に許された山手遊歩道の近辺に設けられた13軒の休憩所のうち食事(チャブ)を提供したところを指したが、給仕女が私娼として媚びを売るようになった。明治10年頃には警察の取り締まりもきかなくなって15、16年頃には黙認のかたちでこれをチャブ屋と称するようになった。初期は石川町の起点あたり(大丸谷)に1拠点あり、その後ここ前田橋あたり、のち本牧宮原海岸に拠点を構えた。
前田橋周辺のものは大正初年には山下町から横浜公園付近まで拡散し200軒に及ぶ繁盛ぶりであった。この辺りは大震災で壊滅し、その後の復興で本牧地帯に移動し、本牧チャブ屋が横浜チャブ屋の代表的なものとなった。本牧辺は明治初期から外人が海水浴場として愛用していた本牧宮原海岸付近に外人相手の料理屋、茶屋が発達し、チョンキナ踊りでストリップまがいの相手をする芸人が流して歩いていた。これが後年のチャブ屋に発展したもので、これらの料理店での経験者が店を開き、震災後は山下町あたりから小港付近に移動した業者を加え、一大チャブ屋街が形成されハマ名物のひとつとなった。
カフェとダンスホ-ルを兼ねた歓楽街としてエキゾティックな雰囲気は谷崎潤一郎の「本牧夜話」に詳しい。チャブ屋営業は太平洋戦争時に沈滞したが、大空襲でスターホテルの外壁だけ残し全滅した。
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