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中華街を鏡に考える-007.

「堀」「運河」で区画された居留地

 

 現在の私たちの目には円海山と日野地区を水源とする大岡川が「お三の宮」で北の大岡川、南の中村川に分流し、中村川は元町から新山下橋まで堀川と名を変え、二つの川が横浜中心部を包む三角州を形成している。しかしこれは歴史と地形の錯覚で、吉田新田建設まで大岡川は「お三の宮」が河口であった(さらにさかのぼれば河口は上流に後退し、蒔田、弘明寺あたりが河口であった)。

 つまりお三の宮から下流の二つの川は「川」というよりも「野毛入り江」の「埋め残り部分・入り江の残欠」なのである。日本中の多くの古い都市を貫流する自然河川はその沿岸の少年たちを川辺に佇ませ、「往きて還らぬふるさとの川」としてかなりの感傷を交え「時間」「永久」「人生」「宇宙」などの感慨を育んだ。横浜ではこれらの「川」の流れは海の干満に連動する上下運動、往復運動としてしか現れず、物流の機能だけが肥大した。この自然環境は横浜人の文学的・思索的・哲学的な底の浅さと無関係ではない。

 横浜開港にともない外国人居留民が増加すると、幕府は攘夷派浪人の襲撃からガ-ドするため「周乾の州」の付け根部分を掘削し、西の橋から谷戸橋まで中村川を直進させ、居留地一帯を一種の「出島」とし入口を制限した。これが「関内」「関外」のおこりである。

 

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