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中華街を鏡に考える-002-5.

日本への中国留学生は日本を

どのように見ていたか?(「わが青春の日本」)

(中華街ショ-ト・ヒストリ-)

 

 自分の顔は自分では見えない以上「他人がどう見たか」は己れを知るには絶好の教材である。しかも文化的に永年にわたって交流して来た中国の若者の目にれぞれの時代の日本がどのように写ったかは、現在の私たちに自分と日本の両方をよく自覚させてくれる。人民中国雑誌社編集の「わが青春の日本‥‥中国知識人の日本回想」はこの意味で広くお勧めしたい。

 中日友好協会会長廖承志氏は東京生まれで暁星小学校を卒業後帰国して進学したが白色テロを逃れて来日し早稲田大学に入学したが、学生運動に参加して国外追放。帰国後革命に投じ長征にも参加した。登場するのは薩摩がすりの着物で隣家の人力車屋の娘「お梅ちゃん」と「お医者さんごっこ」をする五歳の悪童である。成人して再来日のおり「お梅ちゃん」が芸者になったと聞き愕然とする。七十五の老翁の日本語の文章は日本人以上に達意だ。氏の姉廖夢醒女史は中華全国婦女連合会幹部・全人代大会代表でもあるが、大雪の朝小学校への登校時に足駄の鼻緒を切らして泣いていた六年生に角帽をかぶった羽織姿の大学生が羽織のひもをはずし、しゃがんで鼻緒がわりにすげ代えてくれた。宝ものとして大事にしていた太い緒のひもは革命で東奔西走の間に失われるが、その思いはまさに短編小説である。

 恩師河上肇を語る老哲学者王学校文氏、日中間が険悪となったころ理学博士号を取得した蘇歩生氏は滞在を続けるべきか帰国すべきか迷うのだが、恩師は「きみの祖国はこんなに長い間きみを育ててくれたのだ。きみは帰るべきだ」という言葉に促されて帰国する。今は亡き恩師を追慕する。昆虫学を修めに鹿児島高等農林に留学した蔡邦華氏は卒業旅行の行き先が台湾だったため中国人留学生は参加を許されなかった。昆虫の種類の豊富な台湾への旅行を熱望していた氏にかわってケンカ腰で交渉してくれ、それが成功しなかったときまっかな顔で怒った指導教授への思いは深い。帰国の送別会で恩師が中国語で吟じてくれた「楓橋夜泊」は今も忘れないと書く。韓幽桐女史は東京帝国大学法学部に入学を許可された第一号の女性で上野図書館女子閲覧室で知り合った女子学生仲間の勉強サ-クル「のびる会」での日本人女子学生との学習や討論の交流、築地小劇場への見学、秋田雨雀氏を囲む勉強、変装しての工場調査など、徐々に暗くなって行く日本との接点を描出している。

 日本人のすべてがわけへだてなく接してくれたわけではない。中国侵略が進むにつれ「チャンコロ」と呼ばれ蔑視が強まる。朝から夜まで「特高」監視下に拘束され「私が最も多くつきあった日本人は特高刑事であった」と書く留学生、日本の女性と相思相愛になりながらも中国人と知った家族の圧力で引き裂かれた留学生、満州国の成立を機に中華留日同窓会から「満州国学生同窓会」を分離させようとする一高=文部省の圧力に抵抗しついに分裂させなかった元一高留学生、山東省から青島に出た14歳の少年は日本へ「技術習得」の名目で徳山のソ-ダ工場に送られ、ビンタの中での過酷な労働を送る。

 この本に登場するのは1900年(明治33年)に日本で生まれた廖承志氏から1940年代に「少年労工」として連行された*友梅氏にいたる40年間の日中裏面史である。明治末から敗戦直前まで明治維新成功・日露戦争勝利の国に憧れ、あるいは心ならずも連行され、この国の土を踏んだ20人の中国の若者がここで何を見たか、なにに感動したか、なにを疑ったか、の記録である。学問や技術の恩恵を感謝しつつも敵国人として対峙しなければならない屈折した感情。日本帝国主義に激しく抵抗しつつも、隣家の娘さんや下宿のおばさんやかばってくれた恩師や工場の女子工員など、多くの裸の日本人への変わらぬ友情愛情は私たちに政治と人間のありかたを考えさせてやまない。

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