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中華街を鏡に考える-002-3.

一冊の本‥‥屈辱と悲惨の時代の証言

(中華街ショ-ト・ヒストリ-)

 

 1997年2月、新風舎という出版社から「横浜中華街華僑伝」というグラフィックが出版された。著者(撮影者)は村上令一氏、京急上大岡駅東口の写真店の若主人である。専門家だけに全140ペ-ジの前半は72名の在住華僑のカラ-・ポ-トレイトで、後半はそれらの人々のお店や職業に関する「自分史」である。ほとんど村上氏のヒアンリングへの「自分の言葉」になっているため強いリアリティを発散している。

 これまでの多くの中華街に関する刊行物はガイドブックに毛の生えたものであったり、秘話の羅列であったり、好奇の眼差しであったり‥‥いわばこの街をエトランゼの視点で書かれたものに過ぎなかった。この本にはここに土着した人々がいくたの辛酸を経て今日の大をなしたかの過程が淡々と微にに入り細をうがち集大成されている。この本を前にすれば凡百の日本人の著作はその皮相さによって色あせたものになるであろう。

 ある老人は日本軍の略奪暴行の本土や投獄拷問の台湾から逃れ、ある老人は貧農の支持を得るため地主滅殺政策の共産党支配区を脱出してきた悪夢を語る。ある元中華学校校長は1951年の台湾政府系権力と日本警官隊による学校占拠を難じ、ある校長は逆に共産党系住民に殴る・蹴る・るの暴行を受けたと語る。

 ある社長は国民党一辺倒の日本政府に人民共和国を認知させる抗議行動や中ソ対立のあおりで中国共産党と犬猿の仲になった日本共産党と紛争の時代を回顧し、ある社長は横浜まではびこった紅衛兵気取りの若者たちの襲撃事件を回顧する。中華学校の分裂に続いた横浜華僑総会の分裂もほぼ全員が痛恨の思いで語っている。

 関東大震災の惨禍、横浜大空襲の地獄は日本にいる被差別国人として二重の意味の十字架であった。チャンコロとさげすまされ、熱望した無線通信士の国家資格もスパイとなる可能性があるとして阻まれた。卓球が好きだったが中華学校の生徒では公式戦に出られないので隣接する港中学に転校し、そのため最下位だった同校が優勝したと語る広東料理店主。「駄目だよ、兵隊がひどかったよ、話すと怖くて日本にいられないよ、話せないよ、哀しくて泣けるだけだよ。もういいいよ、話せないよ」と言って絶句したままの台湾出身の輸入雑貨商の老婆‥‥。

 後半の証言を読み、前半のポ-トレイトをあらためてしげしげと眺めてみる。一様に過去の苦難の道程が払拭され「福徳円満」そのものと言うべき感と受けるのは実に不思議である。時間はこれほど過去を拭い去ってしまうのだろうか。外敵に数知れぬ殺戮・蛮行を受けながら雑草のように生きのびて来た、日本人には理解できない「中国」そのもののふところの深さなのかも知れない。この一軒一軒の店。そこの主人や従業員の一人一人にすねて膨大なドラマがあり、この町全体に近代日本と中国との歴史的縮図が詰まっている。この本を読んだあとで店に入れば、料理の味つけにもいささか感じるものがあるかも知れない。心ある人なら、この街を鏡に、自分の顔をきっと見直すにちがいない。

 国共対立に発する近親憎悪解消の妙薬は「時間」だけだった。昭和61年(1986)の元旦に関帝廟が焼失したとき、イデオロギ-を越えて華僑の誰もが等しくショックを受けた。台湾派華僑総会の副会長だった分裂後の中華学校元校長から二つの華僑総会に再建案が提示され、両派の協力のもと事業が進められた。平成12年(2000)4月に完成を見た三期十二年にわたる関帝廟再建事業はこの町の人々に落ち着きと融和をもたらしてくれた。

 分裂したままの華僑総会がやっと心を通い合わせたのである。「政治的、思想的なものを華僑社会に持ち込んで戦わせても何もプラスもありません。華僑はその国の法律を守り暮らして行くだけ。大切なのはそれだけなんです。思想というものは宗教のようなものですから、そのことでわだかまりを持つというのは変ですよね」と淡々と語る長老の言葉を聞くと、この町は異国人である私たちの心まで和ませてくれるではないか。

 (この本は市立各図書館で閲覧することができます)。

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