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中華街を鏡に考える-002-1.

開港と中国人の来日

(中華街ショ-ト・ヒストリ-)

 

 安政6年の横浜開港とともに多くの外国人が居留地に住みついたが、貿易に従事した欧米人はアジアにおけるそれまでの根拠地香港から多くの中国人を連れてきた。初めて日本人と取り引きするにあたって同じ文字を使い日本の事情に多少は明るい中国人が窓口役として便利だったのである。

 彼らは番頭や使用人ではなく、商館と契約した一種の独立商人で「売弁(コンプラド-ル、日本人はコンプとかカンプとか呼んだ)」として日本商人との折衝にあたり、しばしば辣腕を振るった。中国では買いつけ、売買契約履行の保証、物産事情の調査、通訳、取引きの取り次ぎ、手形・貨幣の鑑定などにあたっていたが、居留地外での業務が禁じられた日本では生糸や茶の納品の際に「南京口銭(取り次ぎ手数料、コンミッション)「看貫料(秤量立会料)」「拝見料(品質検査料)」などを徴収した。

 そのやりかたは一方的な厳しいもので、欧米流のク-ルな商業ル-ルに慣れない日本人商人を大いに困惑させ、欧米人よりむしろ同じ東洋人の「ナンキンさん」にひそかな憎悪の感情を抱かせた。明治27年~28年の日清戦争を機に不公平な商慣習撤廃の声が日本人商人からあがったが、それとともに「チャンコロ」の蔑称が象徴するような国家による意図的中国差別感は、開港期のこの屈辱感が底辺にあると言ってよい。

 幕府は開港期には中国(当時は清国)とは無条約関係だったため入国を取り締まったが、すでに横浜に居住していた中国人たちは「清国人集会所」を設置し自主的に管理した。

 明治4年日華修好条約が結ばれるや、次第に入国者が増え、現在の中華街(当時は唐人街路)周辺に住むようになった。明治20年頃の「唐人街」には約150軒の店があったが、その内訳は荒物業25軒、両替商14軒、靴屋11軒、料理屋10軒、理髪業7軒、砂糖商5軒などで、料理店は意外に少ない。「南京町」としての形が整ったのは日清戦争前後の20年間だが、明治32年7月17日に「内地雑居令」が施行され外国人の居住地を従来の居留地にとどめる制限が撤廃されたが、中国人に関しては文化摩擦や阿片害や日本人労働市場への懸念から職業選択にかなりの規制がなされた。しかし三把刀(サンパオタオ)、つまり刃物を扱う三種類の職業人、料理人、裁縫仕立て、理髪屋については本来中国人の得意とするところだったので開業が容易であった。これが初期の中華街での独自の街づくりの発端となり、彼らのもとで多くの日本人が徒弟として修業し、これらの職業が徐々に日本社会に広がるきっかけとなった。

 日本人が中国人から技術移転を受けたものには次のようなものがある。近代建築関係(木匠、塗装工、煉瓦工、ブリキ工)、藤家具工作、馬車製造、ピアノ製作、菓子製造、清涼飲料水製造、マッチ製造、紳士服仕立て、婦人服仕立て、理髪、印刷、料理、クリ-ニング、等々。

 中華街で料理店が多くなったのはさほど古いことではなく昭和期に入ってからだし、特に戦後になって激増した。初期には中国人どうしの必要から生まれたものなので、店の名も中流以下を示す「楼」がほとんどで、高級店を意味する「餐庁」を使う店は一軒もなかった。もともと庶民の町だったのである。

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